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History of Akihabara
聖地・アキバの歴史

History of Akihabara
聖地・アキバの歴史
武田 洋一 (旧・亜土電子工業,ADOパーツショップ元店長) Youichi Takeda
Origin
秋葉原・地名の由来

江戸時代,下級武士の居住地だった秋葉原も「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたように,火事が絶えなかったようです.1869年(明治2年),神田相生町の大火災で,東京府は火除地の設置を決定.遠州静岡県から火除けの神様「秋葉大権現」を勘定,火除け神社を建立しました. 後に鎮火神社と改められ,秋葉原駅の開業もあって「秋葉原」という名前が定着しました.秋葉神社は現在,台東区松が谷3丁目にあります.

Budding and Development

電気街の萌芽と発展

戦前

第2次世界大戦の前から,秋葉原には廣瀬無線や山際電気をはじめとしたラジオや部品の卸し売り店がありました.国鉄や都電でのアクセスも良く,地方からの仕入れで賑わっていたようです.1945年(昭和20年)3月の東京大空襲により周辺は焦土と化しました.

1945年〜1955年(昭和20年代)… 戦後のラジオ・ブーム

第2次世界大戦の前から,秋葉原には廣瀬無線や山際電気をはじめとしたラジオや部品の卸し売り店がありました.国鉄や都電でのアクセスも良く,地方からの仕入れで賑わっていたようです.1945年(昭和20年)3月の東京大空襲により周辺は焦土と化しました.

そんな折の1949年(昭和24年),占領軍総司令部GHQは露店廃止令を施行します.秋葉原の有力者が政治交渉を重ねて,代替地として秋葉原駅周辺にラジオストアー[2013年(平成25年)に閉店],ラジオガァデン,東京ラジオデパート(写真1),ラジオセンター(写真2),ラジオ会館ができました.露天商は徐々に移転してきて,部品店として集結します.これが今の秋葉原の始まりです.

1951年(昭和26年)の民間ラジオ放送開始を契機に生産力を回復したメーカ製のスーパー式ラジオが大量に秋葉原市場に出回るようになり,完成品ラジオにもブームが到来します.

写真1:1950年(昭和25年)ラジオデパート竣工.木造2階建てに約33店舗が営業していた.写真は1973年に建て直したときの落成記念のもの
写真2:秋葉原電気街の始まり…1951年(昭和26年)の秋葉原ラジオセンター前の中央通りを渡る牛車

1955年〜1965年(昭和30年代)…家電ブーム

秋葉原が電気街として急速に発展したのは,1955年から(昭和30年代)の神武景気時代です.三種の神器と呼ばれた白黒テレビ,洗濯機,冷蔵庫が飛ぶように売れ(写真3),1965年から(昭和40年代)の高度経済成長期では,新三種の神器となるカラー・テレビ,クーラー(エアコン),ステレオなど家電ブームがおこります.

写真3:1955年(昭和30年)頃の秋葉原駅高架下.手前は都電の線路.三種の神器(テレビ,洗濯機,冷蔵庫)が売れた

1965年〜(昭和40年代)…分野別マニアの時代

真空管からトランジスタ,IC,マイクロプロセッサ,パーソナル・コンピュータといった部品中心に発展した時期でもあり,秋葉原に集まる人たちの興味対象は,家電以外にもラジオからテレビ,オーディオ,無線などに広がります.

1970年代後半にはBCL(Broadcasting Listening)ブームが到来し,中央通りの歩行者天国(写真4)では無線によるキツネ狩りゲーム「フォックスハンティング」や,BCL講演会も行われたくさんのマニアで賑わいました.

写真4:1975年(昭和50年)頃の秋葉原・歩行者天国.左にラジオストアーの看板が見える.マイコン普及促進時代
Latter half of the Showa period

昭和後期(1978年〜1989年)…電子パーツ全盛で秋葉原も絶好調

1975年〜(昭和50年代)…マイコンのブーム

1978年(昭和53年)頃に,ロジックICを用いたアーケード・ゲーム「スペースインベーダー」がデビューすると,ICの需要が大きく伸びました.当時は国産のICに高機能なものがなく,ほとんどはアメリカを中心とした海外メーカからの輸入に頼っていたので値段は吊り上がり,正常な値段では入手できないものが多数ありました.アーケード・ゲームに使われていて,なおかつ流通量が少ないものは高値で売買され,アタッシェケースに1万円札をぎっしり詰めて買いに来るブローカーがいたり,段ボール箱に1万円札を詰めて宅配便で送ったり,今では信じられない取り引きが普通の時代でした.段ボール1箱のICを持っていき,現金で3000万円回収してくることもありました.

当時のICメーカは,ロジックICでは,テキサス・インスツルメンツ,ナショナル・セミコンダクター(2011年米TI社に買収),フェアチャイルドセミコンダクター(2016年にオン・セミコンダクターに買収),モトローラ(2004年に半導体部門がフリースケール・セミコンダクタとして独立.現在はNXPセミコンダクターズ),シグネティクス(1975年に現在のNXPに組み込まれた)が目立ちました.

アナログICでは,加えてアナログ・デバイセズ,バー・ブラウン(2001年テキサス・インスツルメンツに買収),当時のRCAなどが多かったと思います. マイクロプロセッサでは,インテルが開発した8080Aのセカンド・ソースがAMDから発売され,ザイログからは周辺ICを取り込んで命令を拡張したZ80が出始めました.モトローラからはミニコン・ライクなアーキテクチャの6800が発売され,マイコン時代の幕開けとなりました.

大量の部品を使用した時代

当時のロジックICはまだバイポーラ構造で,テキサス・インスツルメンツのLS-TTLが品種も多く主流で使われていました.マイクロプロセッサやメモリはN-MOSで製造されていたので,消費電力も大きくて効率の悪いシリーズ電源からスイッチング方式の電源がポピュラーになってきました.

メモリ容量も少なく,I/Oも個別デバイスで構成され,ICのパッケージはDIPタイプのため基板も大きく,高機能の製品を実現するには,複数の基板をバス構成で接続していました.

このように1つの物を作るにも,IC,基板,パスコン,ICソケット,コネクタ,電線など,大量の部品を使用しました.パーツ・ショップでは,8080系と6800系両方に対応するため,自然と品揃えが多くなりました.オーディオ用や高周波用のユニークなデバイスも増えて,多様な電子パーツが必要とされた時代でした.

電子パーツを買い求めにピーク時は1日300人超

私が勤めていたパーツ・ショップでは,土日の来客が特に多く,電子パーツだけでピークでは1日300人超,200万円超の売り上げで,大人も子供も,学生さんも多数来店されて大混雑,我々店員も体力が必要でした.  数年もたつと日本電気や東芝,日立製作所,三菱電機などからマイクロプロセッサやメモリ,ロジックICが出回ってくると価格がどんどん安くなりましたが,売れる数もそれに増して,仕入れや部品棚への補充が追い付かないこともありました.

電子部品を扱う商社が増えたのもこの頃です.海外の電子デバイスも手に入りやすくなりました.今から振り返れば1984年(昭和59年)頃が電子パーツの全盛期で,本誌も膨大な広告で一番厚かった時代でしょうか.

 電子パーツ店は,新興勢力の信越電気商会(今の秋月電子通商),ダイデン,若松通商,亜土電子工業,もちろん戦後の移転から頑張っているラジオ会館やラジオデパート,ラジオセンター,ラジオストアーも賑わっていて,いろんなお店で新製品やジャンクを見ながらぐるりと1周できました.  この頃は神田青果市場と共存しながら賑わいのある街でした.

First half of the Heisei period

1990年代 (平成前期)… 表面実装部品とインターネットに翻弄された時代

1989年(平成元年)は,神田青果市場が東京都大田区に移転し,秋葉原の再開発計画がスタートした年です.神田青果市場跡地には,2005年(平成17年)に秋葉原ダイビルが竣工し,UDXビルや神田消防署になりました.写真5に平成元年のラジオセンターを,写真6に秋葉原駅前風景を示します.写真7は,駅前広場で行われたイベント風景を示します.

写真5:平成元年(1989年)のラジオセンター

電子パーツの表面実装部品化

電子機器の軽薄短小化の要求に応えるため,ICはもちろん,抵抗やコンデンサ,コネクタなどほとんどの電子パーツが表面実装部品となりました.部品が表面実装になると,小型化に伴う特性向上,使用材料減少でのコスト・ダウン,信頼性向上などが期待でき,電子機器はどんどん高性能・低価格化が進みました.

他方,最小購入単位が1リール(数千個)になって仕入れ時の購入量が増えてしまい,少量多品種での小売り販売はつらくなってきました.それでも一部のお店はリールをカットして販売しました.型名も表示も略称になり,吹けば飛んでしまうようなパーツの取り扱いは難しいものでした.

さらに次々新製品の表面実装タイプが発売され,今までのDIP形状に加えて表面実装部品の両方を在庫することは,売り上げと在庫のバランスが取りにくく,店舗や倉庫の面積も問題でした.もちろんバーコードによるPOSなどもなく,価格表と電卓で販売金額を計算している頃です.

よく売れる部品は単価を暗記している職人的な販売員さんがお店を支えていました.

写真6:平成元年(1989年)の秋葉原駅前

Windowsブーム

一方,パーソナル・コンピュータがどんどん進化していきました.MS-DOSからWindows3.1,1995年(平成7年)11月にはWindows95が発売されました.

Windows95発売日は真夜中にもかかわらずパソコン・ショップにはものすごい人が押し寄せました.今でもそのようすをYouTubeで見ることができます.

秋葉原にとってもインターネットは大変革であり,1999年(平成11年)にはRSコンポーネンツによる電子部品の通販がスタートしました.秋葉原の宅配便の集荷場にRSコンポーネンツの箱を見たとき,時代が変わったことを見せつけられました.

(a)秋葉原駅からのイベント全体の様子
(b) 戦後の姿を思わせる露天商が軒を並べた
(c)懐かしの計測器もずらり
(d) 真空管やオーディオ関連のお店
写真7:平成元年に移転した神田青果市場跡地は駅前広場になった.平成8年(1996年)にこの広場で行われたイベント
Mid-Heisei period

平成中期…インターネットの発展と秋葉原の変化,Arduinoの登場

平成中期には,いよいよ21世紀に入りました.

秋葉原では今までと一風違うパーツ・ショップのaitendoが開店しました.海外製の部品やモジュールが多く,今までの秋葉原のパーツ・ショップとは違う品揃えで人気を集めたと思います(現在の店舗は,台東区下谷).

RoHS指令制度

廃棄された電子機器が与える環境汚染問題が深刻化し,電子パーツに環境規制が適用されるようになりました.欧州連合(EU)からRoHS指令が制定され,鉛や水銀,カドミウム,PBBやPBDEといった難燃剤を含む製品は,EU圏内(後に国内でも)では販売できなくなりました.

このためはんだも鉛入りから鉛フリータイプに,電子パーツの端子メッキに鉛を含むものは販売できなくなりました.得意先から環境汚染物質の不使用証明書や成分分析の発行を求められ,秋葉原の部品商社では在庫品の処分が行われました.

日立製作所と三菱電機のマイクロプロセッサ部門が統合したルネサス テクノロジがスタートしたのもこの頃です.

インターネット&オープン・ソース・ハードウェアでパーツ店品ぞろえも変化

インターネットはますます発展し,この頃になるとP板.comでプリント基板が安価に入手でき,アメリカの電子部品通販大手のDigi-Keyが日本へ進出しました.家電やパーソナル・コンピュータのお店にとってはヨドバシカメラ マルチメディアakiba店が開店し,パーツ店共に秋葉原にはまた逆風が吹いてきたときでもあります.

 電子系大学の教授から聞いた話ですが,研究室の学生さんに秋葉原に抵抗の買い物を頼んだら,「ヨドバシアキバに売っていますか?」と真顔で聞いてきたそうです.

ちょうどこの頃,フィジカル・コンピューティングという新しい風が吹き始めました.マイコンにセンサを組み合わせ人間と結びつける手法です.初めの頃はGAINERと呼ばれるごく小さなマイコン・ボードで,私はただの小さいCPUボードに見えるだけで,何に使うのかよく理解できず,今思えばもうけ損ねた気がします.これがオープン・ソース・ハードウェアの草分けで,イタリア生まれのArduinoに発展しました.

秋葉原でもいくつかのお店がArduinoを売り始めました.ArduinoからはmbedやRaspberry Piが生まれ,ソフトウェアは得意でもハードウェアがあまり詳しくないユーザやMakerと呼ばれるテクノロジ系DIY工作をする人たちにも多く使われました.市販のボードやモジュールを組み合わせるという,今までとは違う発想の客層が増えてきて,Arduinoを扱うことやシールドと呼ばれる拡張ボードやセンサ,Groveなどのモジュールを扱うこと,そしてロング・テールによっても電子パーツ店は息を吹き返したように思います.

Latter period of Heisei period

平成後期…組み込みマイコンからインターネット技術との共存へ

平成後期は秋葉原のお店にとってはますます厳しい時期です.昭和25年(1950年)に開店した秋葉原ラジオストアー,ラジオガァデン,そして鈴商が閉店しました.輸出入に対応した大手の部品商社は残っていますが,高齢化や後継者問題もあり,少人数の商社では倒産・廃業,吸収合併されるところも現れました.

自作派を応援

一方,フィジカル・コンピューティングの流れは衰えず,自作派を応援するスイッチサイエンスなど,新しいきざしが見えてきました.この流れは海外が早く,Raspberry Pi(以降,ラズパイ)が驚くスペックと価格で発売されました.ラズパイは組み込みマイコン製品にLinuxを用いるという画期的なボードで,今までの小さな組み込み用マイクロプロセッサでは大規模なソフトウェア構築が必要でしたが,これらが簡単になるため,インターネットやカメラがごく身近になりました.またLinuxのおかげでクラウドやAI,画像認識が身近になり,ラズパイは秋葉原のパーツ店でも想像を超える数が売られています.ラズパイは自作パソコンのようでもあり,製作物は高機能で,購入者もソフトウェア寄りに変化してきたと感じます.

Akihabara, a sacred place for the Future

令和・そしてこれからの聖地・秋葉原

平成後期は秋葉原のお店にとってはますます厳しい時期です.昭和25年(1950年)に開店した秋葉原ラジオストアー,ラジオガァデン,そして鈴商が閉店しました.輸出入に対応した大手の部品商社は残っていますが,高齢化や後継者問題もあり,少人数の商社では倒産・廃業,吸収合併されるところも現れました.

時代のニーズを反映しながら進化を続ける「秋葉原」

2019年(令和元年)からのコロナ禍では人通りがなく寂しい街でしたが,ここ数年の秋葉原は新しい賑わいを感じます.日によっては半分くらいが海外の観光客かと思えるときもあります.2023年(令和5年)秋月電子通商の秋葉原店では2階売り場がオープンし,キットや工具,そして掘り出し物が買いやすくなりました.

2024年(令和6年)では,ねじの西川(西川電子部品)の廃業で,秋葉原でねじが買えなくなってしまう声を千石電商が救い,西川跡地の2階にギターパーツが移動したことで本店も品揃えが充実し,本店の前では話題豊富な商品にあふれています.

ラジオデパート1階のShigezoneが2階にも拡張し,aitendoは台東区下谷に再開店,ラジオ会館の若松通商も元気です.電子部品の小型化を自社製のモジュールに活路を見い出しているようです.

これからもエレキ少年の好奇心を刺激し続けて欲しい!

秋葉原は真空管のラジオやテレビの時代からアマチュア無線やオーディオ,組み込みマイコン機器,そしてパソコンの時代を経た趣味から実用に直結したエレクトロニクスの街です.街にはメイドカフェやアニメやゲーム,漫画があふれてきましたが,まさにマニアの街・実物の街です.

現代のエレクトロニクスを取り巻くキーワードは,エッジ,AI,自動運転など,新しい楽しみをあれこれ考えながら夢をふくらませる,秋葉原には実物を中心にした面白さや楽しさがあります.今後も時代の先端を取り込み,さらに変化しつつ発展することを期待しています.

▪参考資料▪

(1)中央無線電機会長・藤木常雄;電気の街 秋葉原の今昔.
(2)秋葉原ラジオストアー;アキバはここから始まった!,秋葉原ラジオストアー60年記念誌.
(3)角田無線電機;歌と共に綴る角田無線電機60年の歩み,角田グループ関連会社.
(4)秋葉原駅前商店街振興組合 理事長・八巻 秀次;電気の街,ホビーの街,アニメの街 知る人ぞ知る! 秋葉原&日本橋,トランジスタ技術2017年8月号別冊付録,CQ出版社.

※写真は秋葉原駅前商店街振興組合から提供いただきました.